島原のお盆、精霊舟流し

毎年8月15日初盆の故人を送る舟「精霊舟」に
故人の霊を乗せ町内を担いでねり歩き「流し場」
と呼ばれる海辺へと行き海に流し西方浄土へと
故人を送ります。
初盆でない家は、わらを束ねた菰(こも)に花や
果物等のお供え物を包み「流し場」で流す
習わしです。
300年以上の伝統があり、島原の乱後、
三代将軍家光の命により新藩主「高力 忠房」
人々の心の平穏を図るため神社仏閣を再建し、
仏教を盛んにしたとされ
その一つが、
お盆の精霊舟での送り出しと伝えられています。

もう一つの話があり、島原の乱後にキリシタンを
完全に一掃し、みんな仏教徒として暮らしている
様子をアピールしたとも言われています(^^;

小型の精霊舟は子供の霊を乗せた
精霊舟です。

長崎市の精霊舟の飾りは提灯なのですが
島原の精霊舟には、切子灯篭で飾り付け
されているのが、最大の特徴です。

また、島原の精霊舟は製造も江戸時代当時の方法が
受け継がれ、竹を使って基礎を作り藁(ワラ)を
束ねて造形されています。
下記リンクの「長崎名勝絵図」の文末に
昔は供物を粗末な藁包みにくるみ、流していた
事が書かれています。

「長崎名勝絵図」にも当時の製造方法が書かれて
竹や藁、和紙を材料に製造され、初盆は精霊舟を
一般の家は、近隣と共同で製造した事も現在の
地区ごとの製造と同じであった様子がうかがえ
ます。

佐賀県や熊本県御船町の精霊舟は、合板や板を
用いて製造されている様です。

下記掲載画像は、熊本県御船町の精霊舟

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ここからは、歴史のお勉強(#^^#)

島原の精霊流しと長崎市の精霊流しは、
形態もそっくりなので、長崎市の精霊流しに
ついて少し調べてみました!(^^)!

長崎市の精霊流しは諸説あります。

中国の「彩舟流し(さいしゅうながし)」の説で
中国から貿易でやってきた唐商人の人々が渡航
途中や在日中に亡くなり、その供養の為の
「彩舟流し」が精霊流しとなった説

中島聖堂の学頭の廬草拙(そうそうせつ)儒者が
人々が菰包(むしろで包んだもの)に精霊物
包み流していたのを見て嘆き、藁(わら)で
小舟を作りそれに乗せて流したのが
始まりと言う説

物好きの男性が小舟に供養物を積んで
流したのが広まった説

但し、彩舟流しの舟は実物そっくりの物を
作って大きさは、四間(7.2m)程だった
そうです。

「長崎名勝絵図」に乗っている精霊舟の
構造と違っています。

精霊舟流しのイベントの源は「彩舟流し」に
始まり、精霊舟の構造は、後に廬草拙(そう
そうせつ)
により考案され、物好きな男性が
基で作り方が広まったのかも知れません(^^;

長崎市には「長崎くんち」の催しもあり
1634年に始まったとされています。

1633年~1635年にかけて将軍家光により
鎖国令が発布
キリシタン排除政策が実施され、その中の
対策の一つ「長崎くんち」の大イベント化で
ある程度の成果を見出した家光が対外政策の
第二弾として彩舟流しを真似て、仏教色を
強調しキリスト教信仰国からの布教
活動の抑制政策として実施した可能性も
あります。

夜になると切子灯篭に、明かりが灯され
いっそうお盆らしくなります。

高力忠房が島原に命を受け引っ越して
来たのが1639年

長崎市の精霊舟流しの諸説の一つ「彩舟
流し」説は、中国語の通訳「唐通事」
1604年頃、在留明人の馮六官が初代に
任命されたのが始まりで、唐貿易が盛んに
なった頃と思われ、在日唐商人も増えて
渡航途中で亡くなったり、唐人屋敷内で
亡くなった中国の人達の供養の為に始まった
「彩舟流し」は1604年以降と言う事に
なります。

廬草拙(そうそうせつ)説は
1716年~1735年頃

物好きな男性説は1820年頃に書かれた「長崎
名勝図絵」に享保の頃(1716年から1736年)と
書かれて、廬草拙の説と重なります。

高力忠房は1655年に死去していますので
高力忠房が始めたとされるなら、年代が
違うので、
島原の精霊舟ながしは、廬草拙説、物好きな
男性説では無い事が分かります。

高力忠房が島原に引っ越して来た後に、家光が
行った政策イベント「精霊流し」を真似たと
したら、形態がそっくりなのも
うなずけます。(#^^#)

今は、キリスト教徒ではなく
「改宗しましたょー!」
幕府にアピールしたのではないかと・・・
本人に聞いた訳では無いので
仮説に過ぎません(^^;

年表
1604年「唐通事」開設
↓ 「彩舟流し」 開始年代不明
1633年
↓「鎖国令・キリシタン政策」「長崎くんち」開催
1635年 長崎精霊舟流し 開始年代不明

1637年 「島原の乱」勃発

1638年 「島原の乱」終結

1639年 「高力 忠房」島原に着任
↓ 島原の乱後の復興政策・島原の精霊舟流し
1655年   「高力 忠房」死去

1713年
↓    「切子灯篭」が庶民に広まる
1716年
↓ 廬草拙(そうそうせつ)精霊舟流し開始の説
↓ 物好きな男性が始めた説
1735年

年表と諸説をもとに、精霊舟流しを考えてみると
長崎市の精霊舟流しは、彩舟流しを手本にして
始められ、三代将軍家光の政策のもとに、日本の
国のイベントとして開催

舟の構造や材料で、手間も経費もかかり、
一般庶民は、藁の菰に精霊物、供物を包み流す
風習が続けられ、それを見た廬草拙(そうそうせつ)
が、嘆き精霊に対して失礼と思って、構造も簡単で
経費の掛からない藁を使った精霊舟を考案し

それを参考にした物好きな男性が実際に作って
お盆に流したのが、庶民に広まったと考えたら
年代も諸説も繋がるのですが

何分、物証、詳しい文献が見つけだせないので
仮説のお話にしかなりません(#^^#)

長崎市の精霊舟流しは「彩舟流し」説

島原の精霊舟流しは、島原の乱後(1637年
12月11日勃発1638年4月12日終結)復興対策
長崎市の精霊舟流しを、真似たイベントと
考えるのですが(^^;

もう一つ
島原の精霊舟の特徴である切子灯篭が
気になります。

切子灯篭は
江戸時代『和漢三才図会』(1713)に
書かれており、1713年頃には庶民に
広がっていた事が伺えます。

島原の精霊舟に、切子灯篭が使われ
出したのは1713年以降の可能性があり
物好きな男性説で藁による舟の作り方が
広まり、彩舟の原型から経費の掛からない
藁づくりにし、その浮いた経費分を
その時期に広まった、豪華に見える
切子提灯に変更したのかも知れません。(^^;

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島原の精霊舟は竹で構造の基を作り
ワラを束ねて竹にくくりつけて造る
江戸時代から受け継がれた方法で
制作されています。

長崎市の精霊舟は、現在は合板や木で
造られ、特徴は唐船にみられた屋根と
舳先の「みおし」(水押し)部分等が
彩舟の形状が受け継がれているように
思えます。

「長崎名勝絵図」のワラ製精霊舟には
みられ無い特徴です。

江戸時代に貿易や商業で栄えた長崎と
島原の乱後復興したとはいえ、財政的に
差があった島原とは舟の製造方法が
違って来たのかもしれません。

切子灯篭は
円光(えんこう)大師絵伝1307年から
1317年に書かれた
「円光(えんこう)大師絵伝」に
切子灯篭と同じ形状の灯篭の記載があり
その後江戸時代(1713年)には
庶民に広まったとされています。
島原市の無形民俗文化財に指定され
毎年7000個程が手作りされています。